佐竹稲荷神社
江戸時代は「護持院ケ原」と本多豊後守などの武家地であった。
「護持院ケ原」は一番原から四番原まであり、すこぶる桂景の地であった。
夏秋の季節は一般に開放され、冬春の間は将軍が小鷹狩を催したという。
慶応年間(1865~68)には一番原を残すのみで残りの場所は武家屋敷に変わり、維新後には国の学問関係の諸施設がつくられ学問の街としての特色を整えていった。
森鴎外の小説「護持院ケ原の仇討ち」の舞台としても有名な場所である。
当地は明治の初期に「錦町三丁目」となり昭和37年に「錦町三丁目町会」から分離独立して新たに「錦町三丁目第一町会」として発足した。